僕の脳裏と電子日記

文章にしたくなった事を残す場として此処を設けました。

期末考査、黒い夕日

水曜5限のテストは地質学だった。
教室は北部校舎の理6の306号室。京大の中で唯一僕が、一般試験より前に入ったことのある教室だ。つまりこの教室は高校生である僕にとって、大げさな言い方をすれば、京大の全てだった。

テストは持ち込み可能だったレジュメのおかげで順調だった。暇ができた僕はカンニングを疑われない程度に、この慣れた教室を見渡してみた。
前には広い黒板が4枚。youtubeの動画で雪江教授が使っていたものだ。さらに数学オリンピック研修で使ったプロジェクターと、理学部特色入試でもお世話になった大きい時計。この教室は3年前と何も変わっていなかった。


しかしたった一つだけ、僕にとって馴染みのない、見慣れない物体があった。
部屋の右端にある、淡い色をした掃除用具入れくらいの大きな箱。箱の端には銀色の装飾があるが、表面はベタ塗りの一色。ドアノブらしき物も無いのっぺりとした箱。僕はその「新入り」を早く間近で見たいと思った。

テストが終わって、身支度より前にその箱に近づいた。この無機質で、不自然で、こちらを見下ろすように尊大な箱を隅から隅までじっくりと注視した。すると、箱の端近くに一つのシールを見つけた。そこには「映像機器」の文字があった。
僕はその瞬間理解した。こいつは「新入り」じゃねぇ。


哲学者のジョージ・バークリーは「存在することは知覚されることである」(羅: Esse est percipi)と述べた。我々は知覚出来るもののみからしか存在を確認出来ず、それすなわち、知覚出来ることが我々にとってそれがそのように存在していることと等しいと言う事だ。だがその「知覚」は、脆く弱いものであると僕は思っている。
我々は、特に視覚に関しては、真に知覚しようとしたものしか知覚出来ない。そして、知覚しようとしたようにしか知覚出来ない。
好意を持った人間の顔は整って見える。整っている。憎たらしい景色は歪んで見える。歪んでいる。3年間も意識が及ばなかった謎の箱は、それが視界の中心に来ない限りずっと見えない。そこに箱はない。それほどに人間の知覚は弱い。
子供の頃に一度だけ、太陽を眺め続けたことがある。学校で「太陽を直視してはいけない」と教えられ、その日の帰り道、意地になって20分ほど沈みゆく夕日を注視し続けた。(今思えば、これが僕の視力を悪くした一因かもしれない。)
光線が僕の幼い視神経を焼いた。初めは真っ白だった太陽は、だんだんと黒ずんで見えた。20分後、僕の目には真っ黒な夕日が見えた。僕の目の前には真っ黒な夕日があった。

存在することは知覚されることである。我々は繊細で壊れやすいタンパク質を用い、自らの意識を投じなければ、そこにそれがあることを確認出来ない。我々の脆弱な生物学的現象によってこの世界は存在しているのだ。


いつの間にか5分が過ぎていた。僕の座っていた席にはまだ筆記用具が転がっていた。試験監督は映像機器を見つめ続ける奇怪な僕を薄ら笑いで眺めていた。