僕の脳裏と電子日記

文章にしたくなった事を残す場として此処を設けました。

楠の葉の燃える頃

僕は元来、クスノキという木と共に暮らしてきた。



僕が生まれ育ち今も暮らしている門真市という市はクスノキが市の木として指定されており、「薫蓋樟」という大クスノキは市のシンボルである。最寄り駅である萱島駅には駅構内を貫くほど大きなクスノキがあり、僕が何かに会いに行く度にその壮大な姿を見せてくれる。僕の母校である四條畷高校がある四條畷市クスノキが市の木であり、近くの四條畷神社では「楠公さん」である楠木正行が祀られている。そして、今通っている京都大学もそのシンボルは正門奥の大クスノキである。
僕がクスノキのある場所を選んでいるのではない。ただクスノキが僕のそばにずっと居てくれていただけだ。

ついこの前、僕は京大の大クスノキに触れてみた。
普段は視界の隅に溶け込んでほとんど存在を意識しないこの木が急に気になって、僕はその周りにある円上のベンチを乗り越え、中心にあるクスノキへ向かっていった。
近づくたびにその木は大きくなって行った。自分の予想を遥かに超えるスピードで遠近法が適用されて行った。
中心にたどり着いた時、その木は視界に収まりきらないほど大きくなっていた。
手の届く所にはその幹の根本の根本しかない。手を回しても右手と左手は触れ合わない。そもそも、深く張った根の地上近くの部分に両足を置かないと、幹に触れることすら出来ない。それくらい大きく、太く、存在感のある木だった。
僕は、その大木が毎日見守ってくれているという事と、その存在感さえも日常に溶けていて此処まで近づかないと気づかないという事を実感した。
そして更に、自分は楠の葉の形を知らないという事にも気づいた。

僕は上を見上げた。その時の感情は、19年間を共にしてきた対象を見る時のものとしてはあまりに新鮮だった。少し傾いた日を影に落とす濃い緑の葉。その色も形も全く知らなかった。関心を持っていなかった。

 

無関心とは本当に怖いものだ。
関心を得ないという事は、どんなにその人の事を想っていたとしても自分の働きかけが何も届かないという事だ。僕はそれが怖くて、 想う人に何も届かないのが辛くて、 こんなに辛い想いを他人にさせる訳にはいかないと思い、とにかくどんな人にもどんな物にも興味と関心を持ち、好きになる努力をしようと頑張って来た。
しかし、僕は一番身近なクスノキの葉の事にすら、全く無関心だったのだ。
愚かさで全身が焼き切れそうな感覚だった。そして、そんな僕を憎む事も見捨てる事も無くただ風に揺れているクスノキがより一層愛おしくなった。

僕はクスノキのようになりたいと思った。
自分の考えを言葉や文字や写真で上手く表現する事や、人に振り向いてもらうために何かをする事は心の底から楽しくて、幸せで、夢を持たせてくれる。でもそれは同時に、心を誰かに削り売るようなものだとも思っている。初めは「表現する事が楽しい」と感じていたはずなのに、いつしか「表現し切れない事が悔しい」と感じるようになり、頭の中にあるぐにゃぐにゃとした、歪んでいるのかどうかの判断すら出来ないような無色不透明な何かが蠢いたまま腐っていく。
毎日誰かに何かを伝え、何かを話し、誰かを何かに誘い、誰かに分かってもらう事に尽くし、何も得ず、ただ疲れている。それは幸せでも、短命なものだなと感じている。
早めにくたばっちまう。弱い僕はこんな、心揺れ続ける「感動過多」の生活に長くは耐えられない。
心を潰されてしまう前に、何も伝わらなくても、誰からも気にされなくても何者もただ愛し包める大きさのある、クスノキのような人間になりたいと思った。

しかしまだ今はそれになれる力もないし、それになる時期でもない。ただ今は誰にも見られず燃えれば灰になって消えてしまうような楠の葉を目に焼き付けながら、「クスノキ」と名のつくカフェでエスプレッソを啜るだけだ。







この文書はじおねこさんのアドベントカレンダー怪文書の部分集合」(https://adventar.org/calendars/3993)用に著しました。
次の担当はぴぴさんです。よろしくお願いします。