僕の脳裏と電子日記

文章にしたくなった事を残す場として此処を設けました。

蝉時雨

音楽には特有の季節感を持つものが多く存在する。例えば槇原敬之の曲は基本的に冬の曲であるし、TUBEのシーズン・イン・ザ・サンは代表的な「夏曲」として挙げられる。人はそれぞれの季節にそれぞれの曲を聴いて独特の「季節感」を感受する。それは音楽を楽しむ一つの方法だと思う。

ただ、僕は普段、もう一つ別の嗜み方をしている。

僕は今この文章を書きながらストレイテナーの「シーグラス」を聴いている

 

(今年最後の海へ向かう 夕焼けが白いシャツを染める 二つの長い影を残して 夏が終わりを急いでる)

 

この曲は歌詞を見ての通り、夏の終わりから秋にかけての歌である。ただこの文章を書いている今は4/22(月)、桜が散り夏に向かって空気が熱され始める時期だ。季節的に真逆とも言える曲を何故今聴くのか。

 

その問に対しては「曲がその季節を想起させてくれるから」という答えが相応しいだろう。寒い冬でも気怠い春でも僕は、シーグラスを聴けば懐かしい過去の、また迫りくる未来の夏を想起して気持ちがワクワクする。

人間の脳は時間をかけると過去の記憶を理想化、美化する傾向があるらしい。きっとシーグラスを聴いて思い出す夏は現実にはそぐわない、美し過ぎる夏であると思う。だがそれが現実にそぐわなくても、現実より美しいものを享受できる事はそれだけで幸せであるとも僕は思う。その幸せを感じるために僕は「季節外れの曲」を聴くのだ。

 

 

「蝉時雨」という言葉と、その名を冠する曲がいくつかある。この言葉は季節においての撞着語法(oxymoron)が使われている。つまり夏の言葉である「蝉」と冬の言葉である「時雨」を併せ持つ「小さな巨人」的語法が使われているのだ。

この名を冠する曲として僕が知っているのはココロオークションのものだ。

 

(誰もがみんな 空を飛びたいと 思ったこと 一度はあるだろう そんな事ふと思い出して 時間は止まって 気付けば雨、雨)

 

上では紹介していないが、この曲には「夏が終わってしまう前に」という歌詞があり、夏の曲である。実際、夏以外の季節にこの曲を聴けばメロディーラインによって、消魂しかったはずの蝉の叫びが柔らかに浮かんで来て綺麗な夏を感じられる。が、この曲を夏に聴くとまた違ったものを感じ取ることが出来るのだ。

蝉の鳴き声は浮かんで来ない。もう既に現実は蝉の鳴き声を初めとした様々な夏で飽和しているから、夏を想起させる力は霞んでしまう。大抵の夏曲はそこで終わってしまう。夏に聴くと感じ取られる幸せが少なくなってしまう。しかし、「蝉時雨」はまだ終わらない。

撞着している「時雨」の部分と、上に上げたようなほとんど至るところで通年的な歌詞が今度は冬を想起させるのだ。一年中別の季節を想起させ、ないものねだりな僕たちを満たしてくれる。そんなココロオークションの「蝉時雨」が僕は大好きだ。