僕の脳裏と電子日記

文章にしたくなった事を残す場として此処を設けました。

フロンティア


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これは3月28日、奈良県の曽爾高原で撮った写真です。手前の2人は僕の友達で、この日は僕含め3人で「ハイキングをしよう」と集まりました。

朝7時集合。眠気眼のまま電車に揺られ1時間、一旦三重に入り、名張からバスで40分かけ奈良県に戻りつつ曽爾村の太良路まで行きました。歩道は無く、車道が実質の歩道で、曽爾高原までは後4km。3人それぞれがそれぞれのペースで歩きました。

朝10時半。早朝の揚々とした感覚が薄れてきていた頃、僕らの目の前に現れたのは大きな芒の野原でした。丁度山焼きの時期で絶妙に暗い色の、でも底に秋の黄金を残したような美しい高原が広がっていました。早速僕らはその楽園の中へ飛び込んでいきました。

然の家の近くで遊ぶ子供達の笑い声を傍耳に、近くの亀山から尾根道へ抜けようと3人で計画しました。その時僕らの視界には亀山と、尾根道が丸々収まっていました。

「このくらいなら行けるだろう」と思っていました。

が、そうは問屋が卸しませんでした。

亀山に差し掛かるのにまず20分。そこからひたすら登る。登る。登る。

頂上につく頃にはあの元気な子供たちの声も蚊が鳴くように聞こえ、大きな池は水たまりのように、尾根道から麓に続く大きな階段道は太さを持たない曲線のように見えました。

これが山の規模感かと、実際に登ってみて初めて気付きました。

数字にすればその行程はせいぜい3,4kmです。しかしかかった時間や目に飛び込んできた景色も合わせて、僕の体感はそれより遥かに長いものでした。自然の大きさ、広さ、偉大さは、数字で分かるものではなく、自分自身がその最前線「フロンティア」に飛び込んで実際にそこを踏みしめ開拓するまで分からないのだと気付きました。

 

しかし、その大きさや驚きをそこに居ない誰かに伝えようとするのが写真家の義務です。

亀山からさらに歩くとき、僕は先に歩く2人から引き、尾根道と共に写しました。地学研究者が地層の写真を撮るときにピッケルを添えるように、そこに我々人間という比較対象を置き、威厳ある自然と小さな人間の対比を捉えました。

僕はこれからも新たな驚きを求めてフロンティアへ踏み出します。この写真を見て、偉大なる自然に飛び込んでいく同士が増えることを祈っています。

極夜灯

気持ちの整理が昨日ようやく付いたので書きます。

 

 

 

4月5日、彼が伝説になった。それを知った4月8日の昼、友達と別れた後僕は一人図書館に駆け込んでほろほろと泣いた。

 

別れは突然やってくる。全く思いもしない処でやってくる。1月の初めにも半ばにも惜しい別れがあった。

夭逝はまるであの世からやって来た鳥が現世の人間を無差別に啄んでいるようだと思った。そいつは共に、僕の心も少しずつ啄んでいく。「いつでも会いに行ってやる」という安心感が毎度毎度消えていく。心の中の、衝撃によってすっぽ抜かれた部分は時間が立つと錆び付いて痛まなくなる。それが心の底から嫌だったのに、また一人。

その日は激しい喪失感と衝撃で何も語ることは出来なかった。まともなことは何も言えなかった。ただ平静を装って、嘘だと思うしかなかった。

 

次の日になっても喪失感はどこにも行かなかった。衝撃は和らいだがその代わりに激しい違和感と恐怖感が襲ってきた。あいつは人間を無差別に啄んでいる。僕だって標的かもしれない。そんな現実味のない恐怖感を久しぶりに感じた。

誰もが子供のときにに抱いたであろう底知れない疑問を僕は今でも思い出す。「自分は消えたらどうなるのか。この世に何が残せるのか。」と言うことを、今でもふと考えてしまう。特に誰かが居なくなってしまった時に。前回は2015年のふぇのたすの一件のときだった。答えが出るはずもないのでただひたすら忘れようと努めていた。もちろん今回も同じプロセスでその疑問を抑えつけた。ただ、あの恐怖感が蘇るのが怖くて、彼の曲は聴けないままだった。そうやって何日もやり過ごした。

 

4月16日。全曲シャッフルで音楽を聴いていると彼の作った曲、「後天症のバックビート」が流れてきた。

彼の曲は出会い頭、僕の悲しみに中指を立ててきた。

恐怖感は蘇るどころか完全に吹き飛んだ。今まで何に怯えていたのだろうか。自分が馬鹿らしく思えた。

続いて「イヴステッパー」と「(W)HERE」を聴いて、大好きな「ラインアート」も聴いて最後に「極夜灯」を聴いた。

 

(世界から 忘れられてしまうほど 深い夜を歩いては 何を思えばいいんだろう、だなんて)

 

世界から忘れられてしまう時になっても明けることのない、深い深い夜に足を踏み入れた彼は今何を思っているんだろうか。

そんな事を考えながら今僕は、ただ同じ夜を歩く遠い日を思うのだ。

 

 

Lo-Fi

僕は昨日ヘッドフォンを失くした。確か1万かそこらのそれなりに良いヘッドフォンだった。元々かなりボロボロであった部分もあってそろそろ買い換えようとは思っていたので、あまりダメージはないのだが、しかし僕は基本的に音楽を聴いていないと生きていけないいわば「音楽的サメ」であるので、ヘッドフォンを失くしたからといって全く音楽を聞かず登下校をするのは不可能に近く、結局朝の忙しい時間を惜しみなく費やして自室から安い通話用のイヤホンを見つけ出した。100円かそこらの、恐らくイヤホン界で一番安いものだ。

 

いつもと同じ曲をかけた。彼の声はいつもより遠く聴こえた。やはり安いイヤホンはこの程度かと少し憂鬱になった。

が、その時ふと思いついてthe mirrazの「うるせー」を聴いてみた。音割れし放題のギターサウンドに突き刺すような歌声。もちろん普段聴いているそれとは全く別物に聴こえたが、何故か悪い気持ちはしなかった。

続けて自分の感性に従って曲を選んでかけてみた。

愛はズボーンの「アナコンダ」、Limp Bizkitの「Nookie」、藍坊主の「テールランプ」と来て、プププランドの「ヘイガール、涙を拭いて」を聴いたとき、僕はこう思ってしまった。

 

「なんだ、こっちの方がカッコイイじゃん。」

 

もちろんヘッドフォンで聴くより"音質"が良い事は決してない。ただ、今耳に入ってくる割れたギターミュージックが僕には最高に刺激的で、ロックに聴こえたのだ。

 

この世の中にはローファイ・ミュージックと言う音楽ジャンルが存在する。1990年代、当時の「いかに良い機材でいかにいい音を出して録音するか」という風潮に対してアンダーグラウンドで成長した、わざと安っぽい機材を使ってノイジーに奏でる音楽だ。そこで生み出された考えや作品は、今のロックシーンにも影響を与えている。

安いから悪い、高いから良いみたいな感覚は非常に短絡的だと僕は思っている。イヤホンにしてもファッションにしても、学歴にしても仕事にしても、それらの価値は一元的にではなくいくつもの一次独立な要素が合わさってその価値を成しているはずだ。世の中には完全上位互換など存在しない。全てのものには得意不得意があり、それらを理解した上でうまく使いこなす事が僕らの知恵なのではないだろうか。

 

投影

はじめまして。僕はkleinschevierergruppeと言います。周りからは頭文字を取ってKと呼ばれていて、実際僕の本名の頭文字もKであります。(そもそもKと言うあだ名は元々本名から取ってきたものであるのでこれは自明ですが。)職業は大学生で、毎日大阪の家から京都大学まで理学を学びに行っています。将来何になるかはまだ決まっていませんが、今のところ一番の夢は、エウロパをボーリング調査して地球外生命を見つけることです。

さて、僕には今、主に趣味が3つあります。kleinschevierergruppeと言う名前を見て気付いた方は居るかもしれませんが、僕の1つ目の趣味は数学です。(数学を趣味として捉える人間は少なそうですが。)実は、この長ったらしい謎のラテン文字の羅列はある数学用語のドイツ語表記でして、響きのカッコ良さと頭文字の一致と言う2つの小さな理由で名前として使っている次第であります。
2つ目の趣味は音楽です。僕自身ギターをやっていて、演奏をする事も好きですし、食わず嫌いを好まないので大体どんなジャンルでも聞きます。ちなみにこの記事を書く数十分前にヘッドフォンを失くしたことに気づいて萎えています。
3つ目の趣味は写真撮影です。が、これに関しては趣味と言えるのか少し怪しい節があります。決してネガティブな意味ではありません。ただ自分の中で写真撮影が趣味の範疇から生活の一部へと飛び出してきそうな心地がしているのです。

僕はよく自分の撮った写真に何らかの日本語を添えます。ある時は2単語や1単語のタイトルのようなものを、またある時は2000字ほどの長文を。その時の気分によって長短様々な文章を添えます。良いと思える作品には必ず添えるようにしています。
その中の一つを紹介します。
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投影

僕はこの撮影会の2日前、3月25日にあるアーティストのライブに行っていました。僕が2日間着ていたパーカーをデザインしたアーティストです。
僕はそのライブに強い刺激を受けました。
そのアーティストはライブ以外で顔を公開しておらず、実際ライブで見た感じでも、至って普通の男性と言った感じでした。
刺激の根源はその風体の真逆を行くような激しい映像表現でした。
まるでその人の思想、思考、記憶、感情、、、人生がまるごと外に吹き出して来るような映像表現、そこに重なる彼の魂の歌声。その人の人生が、全身全霊が僕の目の前で4D映画に映されているような心地がしました。僕はそれに心をめった刺しにされました。
これが彼の彼なりのアウトプット、表出だ。人生の投影だ。そう僕は深く感じました。そして同時に、人の本当の姿はアウトプットを通じて感じる事が出来るとも感じました。
きっと僕自身にも同じ事が言えると思います。
僕が自分を投影出来るのは今日昨日のようにカメラを持っているときか、こうしてたらたらと文章を書いているときだけです。だからこうして長い文章を書いているのです。
手前の眼鏡は僕の象徴です。
向く先は暗く何も見えないが、僕の後ろ側、脳裏にはきらびやかな神戸の街のような想像があります。
この写真にこの文章を添えて、映し出された僕を見て欲しいなと思っています。
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これはこのブログのアイコンにもなっている眼鏡の写真に添えた文章です。

文章を書くという行為は紛れもなくアウトプットの行為ですが、最近、写真撮影も僕にとってのアウトプット、表出ではないかと感じる事が増えてきました。もちろん技術力は文章に関しても写真に関しても全く自慢できるようなものではありません。しかし、僕が思うにアウトプットは僕を僕だと分かってもらうための唯一の手段であり、生活する上で必須な行為なのです。(少なくとも僕にとっては。)食事をするのがいくら下手でも食事をしなければ死んでしまいます。僕にとって写真撮影と文章執筆は食事なのです。

と言いつつも僕はこれまでそれほど沢山の文章を書いたことがありません。最近では僕の稚拙な文章を喜んで読んでくれる、愛しき物好きがいるのでたまに筆を執ることはあるのですが、それまではほとんど文章を書いていませんでした。このブログを通して沢山の文章を書き、僕の4つ目の趣味へと昇華したいと思います。

このブログでは主に写真とそれに添えた文章の紹介、及び雑記を更新したいと思っています。
今後とも、どうかよろしくお願いします。